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| 3.ふるさとの創出 |
| 高松が支店経済都市として移行するにつれ、土着したふるさと意識が薄れ始めた。しかも、象徴であるはずの天守閣のない城跡には求心力などなく、東京のミニコピーを良とする方向へ市民の意識を流してしまった。市町合併がほぼ完成した今、それぞれのオリジンとなる地域性を尊重しながら、高松としての共通したふるさと意識ができなければ、グランドビジョンを共有できずに、次の都市計画自体を困難にする。残念ながら、サ ンポート等の新たな都市機能である施設は目には止まるものの、四角い無機質すぎる建物では市民に共通した象徴とはなりえない。特に市町合併した周辺住民からすれば、あまり利用することのない縁遠い施設としか見られないのが現実である。箱モノの増大はさけるべきだが、こと玉藻城天守閣に関しては、高松市民の共通アイデンティティとして必要であり、景観から“ふるさと心”を再建する事業のため、採算性だけで議論すべきものではない。その効果だけを言うならば、大阪城のようなコンクリートのハリボテでも十分だが、実際の再建に当たっては文化庁の歴史遺贈物保護の視点とのせめぎあいとなるのは必至である。木造による再建は歴史を歪曲させないために譲るとしても、コストをかけるならば、ただのレプリカではなく、利用価値のある再建方法を検討すべきであろう。それらの点から、現在調査が進められているような歴史や築城の専門家だけでなく、広く市民も入れた幅広い議論で検討を進めるべきである。 <ふるさとの創出〜アイデンティティ創出> 人がその地域にアイデンティティを抱くようになるには、面々と続く自分たちの先人が試行錯誤してきた歴史と文化やその背景に共感することが必要である。同じ讃岐弁をしゃべり、同じメディア圏に居住し、同じような衣食住の文化を持つ人たちを結びつけるには容易そうでいて何かが足りない。最終的な求心力となるのは、やはり歴史と文化に他ならない。しかし、高松は歴史と文化の共有感が極端に弱く、実際、かつて転勤族を対象としたアンケート調査において、高松は日本中の都市の中で、住みやすいまちとして上位に位置していたにも関わらず、実際に住みたい場所としては下から数えたほうが早いという惨憺たる結果であった。それは、第二のふるさととして認識できるだけの地域性が乏しかったからなのではないだろうか。地域の歴史と文化を軽んじ、古いものを壊し、ミニ東京をつくり続ければ結局こうなってしまうといういい例だろう。 |
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<ふるさとの創出〜協働のまちづくり〜責任分担> ふるさと意識を持つ市民を形成するには、今までのような行政依存型、行政先行型では無理がある。市町が合併し、NPOやボランティア団体は著しく増加している。さらに、本年からは地域のコミュニティの各となる公民館のコミュニティ・センター化が開始され、市民同志を分離させていた縦割り構造をドラスティックに変える一石となると期待する。しかし、財源を一本化し、箱を有効活用しようとしても、最終的には市民の意識がその行政の先見性に追いついていなければ、空中分解の危険をはらむ。また、地縁組織を補完するように増加してきたNPOも、まだまだサークル的な組織が多く、ほとんどが行政と責任を協働して担うまでには至っていない。NPOやボランティア団体の世界にも淘汰が起こる前段階にやっと達し、活動に魅力と責任能力がないために崩壊する団体もこれからは出てくるだろう。何より問題なのは、自治会を始めとする地縁組織や活動そのものを目的とするボランティア・市民活動団体など、自分たちができることは自分たちの手でやろうとする「共助」のシステムのどこにも属していない市民が多く存在し始めていることだ。彼らは、行政やそのような団体の供給するサービスを一方的に消費するだけの「サービスイーター」と呼ぶべき存在であり、この増加が地域の協働のシステムを窮地に追いやる可能性を持っている。自由と権利だけ主張し、個を重視するあまり、面倒くさいことは他人や行政にすべて依存し、時に堂々とクレームだけ声を荒げる。市民にそのような人々が増えつつあることは、これからの地域主権型社会を支える“共助の社会”システムそのものを危機にさらしかねない。市民によるオンブズマンなどは、市民の目で行政を監視するという点では存在価値はある。ただし、行政に文句だけ言うという点では、協働への初期段階の組織に分類せざるを得ない。例えば、先の高松市における漁業補償問題に関する裁判のようなやり方では、訴訟に勝っても、それにより高松の将来のリーダーを目指す人を尻込みさせ、やる気を失わせ、それによりこの地域の可能性を縮小させてしまう。その損失はことのほか大きい。結果として不幸にも市民が市民を萎縮させる現状は決してあってはならない。これらの活動は常に未来をポジティブに捉え展開しなければ、過去を糾弾するだけのネガティブな視点を市民に広げてしまう懸念がある。協働が進めば、そのような高みに立った団体数は影を潜め、行政と対立ではなく、真のパートナーとして責任を分かつ団体が増えてくるだろう。協働とは対立構造からは決してうまれないことに今一度、私たちは気がつかなければならない。 また、行政側も協働や財政難を盾に、指定管理者制度を中心とした民間委託へ一気に流れようとしているが、これは小さな行政を目指し、民間ができることは民間にという思想を充足するものであっても、市民と行政の責任の分担という協働の理念の本来の目的には合ってはいない。現在のところ、そのような単純なアウトソーシングと協働が同じ切り口で取り扱われていることには、疑問を感じる。アウトソーシングとは別に、本来の地域主権型社会の根っことなる協働を真剣に正面から捉えなおして欲しいと切望してならない。 今、この状況下で必要なことは、NPO・ボランティア・市民活動団体の育成と淘汰の両政策、コミュニティ・センターを活用した地縁組織の効率化と力の集中、サービスイーターの削減のためのソフト政策充実、アウトソーシングとは別に、本来の協働づくりを目指す。その場合に大切な事は、市民の責任分担なのである。 |
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